あとでタイトルかんがえます

言語化の準備運動 いずれきちんと書こうと思います これは下書き

・地図や標識のある悪路と、ひらかれた無軌道の話
子供の育ち方(育て方ではない)について
たとえば「落石注意」「歩行者用道路はこちら」みたいな案内がある山道を、まっすぐ迷わず進んできたひとは
そのための能力を養ってきていると思う

ぼくは遠く遠く枠こそあれ道らしい道を示された記憶がない。より正確に言うなら道は有っても細かくわかれていて、目抜き通りのようなものを示された記憶がない。

一応の枠は越えろと言われても億劫なほど遠くにあって、それは『わざと人を悲しませない方がよい』だとか『悪いと思っているなら謝った方がよい』だとか『食べ物を粗末にしない方がよい』だとか。跨げるレベルの高さで柵があるイメージ。『方がよい』であり『べき』『ねばならない』ではない

昔の彼女の話

Twitterで『元カレに結婚式の招待をされかけた』みたいな話を見かけた。

結婚式に呼ばれて行った元カノを思い出すなどした。

 

 

宇宙でいちばん可愛い女の子だと思っていたし、今でも彼女のことを宇宙でいちばん可愛いと思う。

 

付き合ったことがあるのはその子一人ではないけれど、僕が、元カノ、と言うときは大抵彼女だ。

特別に大好きな女の子だった。

 

未練たらたらのクズみたいな書き振りだな。

(いやまぁクズは否定しないけれども、)未練があるわけじゃないんだ。

高校のクラスが一緒になって、同じ駅でも違う路線で帰るから、僕は使いもしない東西線のダイヤを覚えたりした。卒業してからの方が親密で、彼女はなんにもない田舎で大学に通う僕に会うために貴重なバイト代なんか使ったりして、優しさと気障と健気と臆病と、どう捉えたとしても僕は彼女のそう言う部分だって愛おしいと思っていた。柔らかくて滑らかで、体温は低めで、睫毛が真っ黒で、横顔を見つめていると涼やかな造形が格好良くて、口を開けて笑うと小柄なのによく響く声で、歌が上手で、僕ほどではないがなかなかの癖字で、理想家で、努力家で、僕に愛してるよって言う以外にケチのつけようがない。

めちゃくちゃ好きだったけど、めちゃくちゃ好きなだけで、酷いことをした。

めちゃくちゃ好きなまま、別れ話をした。

 

僕がどれだけ酷かったかっていうのは、彼女がどれだけ素敵な女の子だったかっていうのを分かってもらわなくても書けた。

 

だらだらと書いたのは惚気だ。フッたあとのこれが惚気に計上されるなら。

 

僕が彼女をフッたことになるのだと思う。

僕は彼女が言う大好きを信じられなくなって、僕のやり方で伝える大好きを受け取れない彼女に不満をおぼえるようになって、話して、分かれた。

 

端的に言えば、僕は彼女と性的な触れ合いをしたかった。

彼女は肉体関係抜きでも特別な感情を抱ける人間らしく、僕は恋した相手とはセックスもしたくなる生き物だった。

そりゃまあ上手くいかない。

 

ベロチューへの嫌悪感が唇の固さで分かるって、彼女と付き合って初めて知った。

知ってた?

 

今でも彼女のことを大事には思っている。

彼女もたぶん、僕のことが嫌いになったわけではないと思う。思いたい。

 

分かれてからしばらくして、彼女には彼氏ができ、のちに結婚した。

結婚式の彼女は本当に本当に綺麗で、その場の全てから愛されて見えた。穏やかそうな新郎に笑いかける横顔を見た。やっぱり睫毛が真っ黒で、陶器みたいな肌にうっすらラメをのせて、緊張しながらも幸せそうにしていた。

披露宴、友人代表は僕だった。

お色直しのための中座で、僕は彼女をエスコートした。ウエディングドレス姿の彼女が隣にいるのは非現実じみていて、今でも少しだけ疑っている。本当に可愛い女の子だった。

大好きな女の子が真っ白いドレスで階段を降りていくのを手伝って、控室に向かう前に我慢できずに抱きついた。

補正のボーンがあったのか、そもそも伸縮しない生地なのか、硬めの感触だった。

なんでそっちがそんなに泣くの、と笑いながら抱き返してくれる彼女の手ばかり柔らかかった。

 

 

そんなこと。

KZの曲が怖い

 

KZの曲が怖い。

嫌いではない。

怖い。

 

KZっていう歌うたいがいる。

その人の話。

 

あの、一個前(3ヶ月くらい前か?)の記事でいかにも聞きませんけど???みたいな態度取っといてアレなんすけど、そこに帰属できませんってだけで、好意がないわけではないのよ。

と自己擁護する。

 

それからこの記事はメチャクチャなことを書く。暴言に読めるかも分からない。

でも誰かを傷つける意図はないのだと先に予防線も張る。

 

あっあと敬称略なのは尊敬と愛に拠ります。

(僕は別にナポレオン公を愛してはいないけれど例えとして、)ナポレオンさんと呼ばずにナポレオンと書くでしょ?みたいな。

 

https://youtu.be/q4c9mGTvL9c

 

 

KZの曲が怖い。

救われるのが怖い。

 

この違いを説明するのはとても難しいのだけれど、一回ブチ壊れると死にたいという願望とは別に「死ななくちゃいけない」と確信する瞬間がある。

 

悲しいとか苦しいとかじゃなくて。それを、こう、辛いっていう感情レベルに引っ張っていくれる声が怖い。狂気から少し息継ぎをしてしまう。

憂鬱を直視するのはめちゃくちゃ辛いんだけど、狂っていた方が楽だろうなとも思うんだけど、自分の隙をみて聞く。

救われてしまうので今でもずっとしんどい。

やさしい歌のせいで生き延びてしまう。辛い。

 

でも這うように再生するのは僕自身なわけで、やっぱり救われたいのだ。たぶん。

それが可視化されるのもつらい。

KZの曲にはもっとやさしくて美しい存在が救われてほしい。

僕なんぞではなくて。

人間、KZに救われろ。

 

胃が痛い。

 

 

https://youtu.be/OPICYqYx0oM

 

つらい。

サイファーみてたらkandi身に付けたくなった話

梅田サイファーのリリースツアー、追加公演に行ってました。

仕事終わりに夜行バス乗って。人生2度目の大阪。

ずっと大阪遠征するならレイヴ大戦だろうなって思ってたのにまさかのハードコアじゃない音楽イベントで自分に驚きですよ。地元のコンビニに行くのか?みたいな阿呆すぎる軽装(荷物は財布、iPhone、たばこ、メイクポーチのみ)で弾丸。

 


楽しかった。

 

 

 

さっきもフライング気味に触れたけど、自分が音楽目当てに大阪へ行くならレイヴ大戦とかGRINDISCOとかAFTERSKOOLとか、まぁ他にも色々あるけどとにかくハードコアテクノ系のイベントだと思っていた。

前提として僕はハッピーハードコアを愛していてハンズアップを愛していてジャンプスタイルを愛していてUKハードコアを愛していてマキナを愛していてガバを愛していてJコアを愛していてドラムンベースを愛していてえっとえっとそれから。 もういいか。とにかくそういう音楽が好きだ。

僕は、テクノ近辺に生息する地虫だ。

 

 

 

このエントリーは、「そんなハーコー狂いが梅田サイファー食らって宗旨替えした話」ではない。

 

 

 

跳ねて歌って騒いで笑って、笑いながら、「これじゃないなあ」と思った。「僕にとってのそれじゃないなあ」と。

帰りのバスで「道玄坂でハーコー聞きてえ!」と焦がれた。アフターパーティの会場を出るや否や。

聞きてえ!浴びるほどハンズアップ聞きてえ!溺れるほどハピコア聞きてえ!ってなった。

 


サイファーは約束じゃない、クルーでもない、誰がきてもいい」みたいなこと、インタビューだったりMCだったりで聞く。今回のクアトロでも聞いた。

けして退屈だったわけではない。

間違いなく楽しい、あっという間に感じるライヴだった。嘘みたいでズルみたいで夢みたいなハッピーだった。ただ、それがお呼ばれしてお裾分けをもらうハッピーに感じたというだけの話で。

 


僕にとって「あのひとのラップ」はこれじゃないけれども

このひとたちにとって「僕の電子音」はあれじゃないんだな

僕にとってのあれが、このひとたちにはこれなんだな

と思いながらステージを見ていた。

たぶんきっと僕はラップに救われない。

 


そのことを悲しいとは思わない。

クオリアの共有ができないことなんて分かってて行った。あの日クラブクアトロで僕だけがWEEKEND RAVERSのパーカーを着ていた。たぶん。

 


悲しいとは思わないし、好ましいと思った。

僕は文化としてのヒップホップに触れて育ってはいない。慣れないモノというのは往々にして拒絶反応を起こしがちだ。

でも、間違いなく、めちゃくちゃ楽しかった。

それはライトに照らされていたあの人々の技量と気迫が持つエネルギーの証左であると思う。 歌唱法としてのラップには概ね好意的だけれど、ヒップホップの文化全体に馴染みがあるわけではない僕の高揚には敷くものがなくて、シンプルに目の前の彼らによって引き起こされていた。

 


輪っかに僕も入りたい、とはならなかったけれど、それは僕が「HIPHOP育ち」ではないからであって、ホイッスル吹き鳴らしたいレイヴホーン響かせたいPLURしたい!って衝動に駆られたのは間違いなくあの輪っか(ステージの上では半円だったけど)が理由だ。

「土曜日の歩道橋」*1の語義が土曜日の歩道橋でしかない僕が、

それでも「週末の冒険」*2秋葉原道玄坂や池袋、大きいところなら新木場あたりの光景を浮かべるような。

悲しいことであるわけがない。

 


要するに、僕は、音楽が好きなのだ。

 


それを違和感ではなく共感で再認識させてくれた梅田サイファーの面々は凄いな、と思う。

別にラップは救ってくれない。別にヒップホップは救ってくれない。

でも好きだ。

それを好いている人々も好きだ。

と思った土曜の夜でした。

 

 

 

たぶんこれからも僕はヒップホップに救われないし、

たぶんこれからも僕は梅田サイファーが好きなんだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところでそれはそれとして

(みんな大好きだけれども中でも好きな、と書くとなんか照れ臭くって推しとか贔屓とか言葉を茶化して書いてしまいがちな推しである)KOPERUソロまでアフターパーティに残れなかったことが心残りなので次の機会があればもうちょっとスケジュールなんとかするぞとも心に誓いました。

*1:梅田でサイファーしてた時間と場所

*2:僕のいちばん愛しているクラブイベントはWEEKEND RAVERSだ。後述の地名は僕が楽しく遊んだWRの会場たち

向いていないことに向かおうとする人が好きだという話

「天職じゃないそれに身を置くエンターテイナー」を好きになるとしんどいけど、でもほら、闇のおたくってさ、「運命じゃない2人」みたいなやつ好きになりがちじゃない……?

 

っていう話。

 

 

 

一例。

 

推しがいたんですよ。

 

いたっていうか、まあ、うん、現在もめちゃくちゃ好きだし

「好きな俳優は?」と書かれたとして(その人は役者をしていました)、どう答えるかはもう間違いなくそのひとで確定なのだけれども

今は舞台を降りたひとなので過去形で書きました。

 

板の上から去ります、というおしらせを受けたとき

「あー、そっかぁ。今だったかぁ」

みたいな納得があった。

えっ辞めちゃうの、という意外さが無かったから疑う気にもならなくて、ただウワーーーーさみしいーーーーーーーアーーーーーーーーー好きーーーーーーーしんどいーーーーーーーーーー大好きーーーーーーーーーーーーーーーってなった。

 

なんとなく、というか、もっとハッキリした「このひと『(昨今のいわゆる若手俳優に顕著な、人気商売的セールスの)俳優業』に向いているひとじゃない気がする」を抱えながら応援していたから、

むしろフェードアウトではなくご挨拶してくれるなんてやっぱり真摯なひとだな、という感想が最初に来た。

 

 

そのひとに限った話ではなくさ

自分の実存する「推し」、わりと病みがちなんですよ。

 

 

いや分かりやすく 病む って言ったけど

なんて言葉が相応しいんだろ、悩むな

 

不安定さに庇護欲を掻き立てられてるとかじゃないんです。

翳りにときめきをおぼえるとかでもないんです。

真面目さ、真摯さは美徳だと思うけれどそれだけが尊ばれるべきとも考えないんです。

 

ただ

「運命じゃないけどそこを選んだ」ような在り方に惹かれているフシはあるなって自己分析があって。

 

だって、それ、めちゃくちゃ人間じゃん。

 

それしかできなくてそうなっただとか、それが得意でそうなっただとか、

向き不向きと結果が重なるならば、自然だと思うわけです。

液体が上から下に流れるだとか、磁石のS極N極が引き合うだとか、

そういう摂理に近いと感じます。

 

そこでポンプ出してくるの、めちゃくちゃ人間じゃん。

 

1つの個体があって、自律思考して、その選択として目の前にあらわれている「推し」、

敬愛の他に何を抱いたらいいんだよあるなら教えてくれよって感じだ。

 

 

 

 

 

閑話。

というか転換。

 

 

自分は自分のことを「向いてねーなー」と思うことがよくあります。

よくありますっていうか、基本それです。

 

社会は、大体が定型発達を対象に展開しています。

知能指数ってヤツがどの程度参考になるかはさておき、まぁ一応の物差しとして使うなら)自分は診断書と言う名の折り紙つきチャレンジャーなので

諸々がお察し案件です。

少なくとも日本国における義務教育を終えた成人が平仮名の書き取りが怪しい、という前提で動いてるシーンないでしょ。

多少の悪筆はともかく鏡文字なんてふざけてんの?って思われるじゃん。

 

識字関連に限らず色々とまぁそんな感じの世界にポイと放り出されておろおろするとき、つまり毎日、

自分はバグだな、B級品だな、エラーだなと感じます。

だってきっと間違ってるもん。種として。この個体が許されてんのおかしいもん。淘汰漏れにしか思えない。

 

で、自分は向いてないことに頑張る根性を持ち合わせたおりませなんだ。

しょっちゅう選択には「or DIE」が付いて回る。

 

たまたま生き続ける側を選ぶのが続いたけれど、「ニンゲン不向きだけどニンゲンやるぞ!」みたいな気持ちはないです。たまたま。

このブログだって、向いてない「手書き」で日記書く気がないから打ち込めるツールを使っているに過ぎない。

 

 

 

心のはたらきとして、己にできないことをこなす姿へ尊敬の念をいだきがち、という特徴があります。

 そこに痺れる憧れるゥってやつだ。

 

やっと話が戻ってきた。

構成下手かよ。

 

 

親近感だとか、仲間意識だとかからくる愛があることも知っているけれど、

どちらかというと得体の知れないものを妖怪だとするような

そういう幾分かおそれを含む愛を向けています。

 

だから何って内容なんですけど。

そんな自己分析をしました、しています、という話。

性善説とか性悪説とかじゃなくてさあ

随分と昔に一度取ったそれはまともに記事を書く前に無くした(gooメールやその辺のもう二度と見られないフリーアドレスを使った気がする)ので初めてと言っていいはずだ。

喜びの勢いで取得した。

別に推しの公演チケットが用意されたとか、資格試験に受かったとか、恋人と入籍したとか、そういうことではない。
たまたま読んだブログに、あ、イイ。と思った勢いである。

絶対的敗者が好きです。世界という膨大な善意に踏み躙られた頭のおかしい歴史上のゴミが好きです。彼らには彼らの正義があったのに余程正しい大多数に縊り殺されたその歴史が好きです。唾棄すべき悪者を愛してやまないのです。

https://a06mnei.hatenablog.com/entry/2019/05/27/235947

だってさ。
ねえ。「世界という膨大な善意」。
これ音声化して骨伝導聴きたくなる言葉選びだと思うんだ。
「世界という膨大な善意」!

どういう経緯であのページにアクセスしたのかもう分からないのだけれど(注意欠陥多動性障害持ちの衝動性を甘く見ないでくれ)、ただタブに残っていたブログの一記事でこんなにハッピーになるなら至るまでの道なんざ些事だなとも。

※僕個人は「生き残った者が最も格好良い」と感じがちなので彼女(おそらく女性による筆であると考えているけれど、まぁネット社会における性差判定ほどアテにならないものも少ないよね。ボイスチェンジャーとかその辺りの技術の進歩は目覚ましいものがあるのだし)と違う思想を贔屓しがちではあるのだが、
「世界という膨大な善意」という一句に関して喜んでいるのとは別の話。

そして「格好良い」と「良い」は必ずしも一致するとは限らないと考えるのでそっちも今は話題にしないぞ。


のっけから他人に寄りかかった話題の記事で、ああこのブログ長続きしねーなって予感がビンビンのビンなのだけれども
それでもいい。
今あの記事を読んで「世界、良いじゃん」って思ったのは変わらぬ事実なので。


性善説とか性悪説とかじゃなくてさあ
言ってみれば世善説や世悪説と字を充てたくなるそれ。










あ、あと余談の余談。

これ書いた方、知ってた。
いえ全然知らねーと思いながら読んだし書いてたんだけど。
この方のイラストを見たことがあった。

世間狭いな。