向いていないことに向かおうとする人が好きだという話

「天職じゃないそれに身を置くエンターテイナー」を好きになるとしんどいけど、でもほら、闇のおたくってさ、「運命じゃない2人」みたいなやつ好きになりがちじゃない……?

 

っていう話。

 

 

 

一例。

 

推しがいたんですよ。

 

いたっていうか、まあ、うん、現在もめちゃくちゃ好きだし

「好きな俳優は?」と書かれたとして(その人は役者をしていました)、どう答えるかはもう間違いなくそのひとで確定なのだけれども

今は舞台を降りたひとなので過去形で書きました。

 

板の上から去ります、というおしらせを受けたとき

「あー、そっかぁ。今だったかぁ」

みたいな納得があった。

えっ辞めちゃうの、という意外さが無かったから疑う気にもならなくて、ただウワーーーーさみしいーーーーーーーアーーーーーーーーー好きーーーーーーーしんどいーーーーーーーーーー大好きーーーーーーーーーーーーーーーってなった。

 

なんとなく、というか、もっとハッキリした「このひと『(昨今のいわゆる若手俳優に顕著な、人気商売的セールスの)俳優業』に向いているひとじゃない気がする」を抱えながら応援していたから、

むしろフェードアウトではなくご挨拶してくれるなんてやっぱり真摯なひとだな、という感想が最初に来た。

 

 

そのひとに限った話ではなくさ

自分の実存する「推し」、わりと病みがちなんですよ。

 

 

いや分かりやすく 病む って言ったけど

なんて言葉が相応しいんだろ、悩むな

 

不安定さに庇護欲を掻き立てられてるとかじゃないんです。

翳りにときめきをおぼえるとかでもないんです。

真面目さ、真摯さは美徳だと思うけれどそれだけが尊ばれるべきとも考えないんです。

 

ただ

「運命じゃないけどそこを選んだ」ような在り方に惹かれているフシはあるなって自己分析があって。

 

だって、それ、めちゃくちゃ人間じゃん。

 

それしかできなくてそうなっただとか、それが得意でそうなっただとか、

向き不向きと結果が重なるならば、自然だと思うわけです。

液体が上から下に流れるだとか、磁石のS極N極が引き合うだとか、

そういう摂理に近いと感じます。

 

そこでポンプ出してくるの、めちゃくちゃ人間じゃん。

 

1つの個体があって、自律思考して、その選択として目の前にあらわれている「推し」、

敬愛の他に何を抱いたらいいんだよあるなら教えてくれよって感じだ。

 

 

 

 

 

閑話。

というか転換。

 

 

自分は自分のことを「向いてねーなー」と思うことがよくあります。

よくありますっていうか、基本それです。

 

社会は、大体が定型発達を対象に展開しています。

知能指数ってヤツがどの程度参考になるかはさておき、まぁ一応の物差しとして使うなら)自分は診断書と言う名の折り紙つきチャレンジャーなので

諸々がお察し案件です。

少なくとも日本国における義務教育を終えた成人が平仮名の書き取りが怪しい、という前提で動いてるシーンないでしょ。

多少の悪筆はともかく鏡文字なんてふざけてんの?って思われるじゃん。

 

識字関連に限らず色々とまぁそんな感じの世界にポイと放り出されておろおろするとき、つまり毎日、

自分はバグだな、B級品だな、エラーだなと感じます。

だってきっと間違ってるもん。種として。この個体が許されてんのおかしいもん。淘汰漏れにしか思えない。

 

で、自分は向いてないことに頑張る根性を持ち合わせたおりませなんだ。

しょっちゅう選択には「or DIE」が付いて回る。

 

たまたま生き続ける側を選ぶのが続いたけれど、「ニンゲン不向きだけどニンゲンやるぞ!」みたいな気持ちはないです。たまたま。

このブログだって、向いてない「手書き」で日記書く気がないから打ち込めるツールを使っているに過ぎない。

 

 

 

心のはたらきとして、己にできないことをこなす姿へ尊敬の念をいだきがち、という特徴があります。

 そこに痺れる憧れるゥってやつだ。

 

やっと話が戻ってきた。

構成下手かよ。

 

 

親近感だとか、仲間意識だとかからくる愛があることも知っているけれど、

どちらかというと得体の知れないものを妖怪だとするような

そういう幾分かおそれを含む愛を向けています。

 

だから何って内容なんですけど。

そんな自己分析をしました、しています、という話。